【京都・老舗の継承】三嶋亭の5代目「光も闇も見た…なに屋になってもいいが、すき焼きは残したい」

12時間前

「三嶋亭」5代目主人・三嶌太郎さん(2025年11月撮影)

(写真14枚)

11月におこなわれた将棋の「第38期竜王戦」で、藤井聡太竜王と佐々木勇気八段が、勝負メシとして選び話題になったすき焼き専門店「三嶋亭」(京都市中京区)。5代目主人・三嶌太郎さんは、60年の人生の間に起きたさまざまな転機について、ときに笑いを誘いながら赤裸々に語りました。

京都・三条通の「寺町京祇園商店街」に面して建つ趣のある木造3階建てが、三嶋亭本店です。現在は商店街のアーケードがあり、建物の全景を見ることはできませんが、創業時の建物を今も使用しています。1階は、右側がすき焼き肉などを販売する精肉売り場、左側はすき焼きなどを提供する飲食店の入り口になっています。

明治の頃のメニューには、「みそ」の文字があります
明治の頃のメニューには、「みそ」の文字があります

初代・三嶌兼吉氏は、京都から長崎に行き牛鍋を学んだあと、明治6年(1873年)に京都に戻り、牛肉販売の許可を得てすき焼き店を開業しました。そのころはまだ肉を食べることに抵抗感がある時代だったことから、不慣れな肉のにおいが気にならないように、薬味として九条ネギや味噌を入れていたそうです。ハイカラな新しいモノ好きな人から、やがて庶民にもすき焼きは広がっていきました。

せりの前には事前に全頭の下調べします。仕入れは、脂質、赤身、農家の人の愛情を枝肉から判断します
せりの前には事前に全頭の下調べします。仕入れは、脂質、赤身、農家の人の愛情を枝肉から判断します

牛肉は、産地にこだわらず、独自の目利きで枝肉を買い付け、3週間ほど保管庫で熟成してからさばいて店頭に出します。HACCP認証(食品の安全管理体制を証明するもの)を取得した冷蔵庫で熟成させるなど近代化されているものの、仕入れから熟成までの方針は昔から変わっていません。

三嶌さんが三嶋亭を継ぐことを意識したのは、「ええ後取りできましたね」と、お店で働いている人たちから言われていた幼少期の頃です。小学4〜6年は中学受験のために「檻に入れられたみたいに勉強だけの日々」を送りますが、無事合格します。勉強から解放されて、三嶌さんが興味を持ったのは音楽・ギターでした。

「三嶋亭」のすき焼きは、中居さんが調理して、最高のタイミングで提供してくれます
「三嶋亭」のすき焼きは、中居さんが調理して、最高のタイミングで提供してくれます

高校1年(15歳)の夏休みに、先代の父に言われてお店の手伝いを始め、すぐに仕入れのために市場に連れて行かれたそうです。

「仕入れのとき、父は背中を見とけだけ。あとは俺が買った牛を勝手に見て覚えろと。何かを細かく教えてもらったことはないです」

仕入れだけでなく、精肉のカットや販売も手伝いました。大番頭さんや先輩に厳しく言われることもありましたが、仕事や社会のおもしろさに目覚め、学校が長期の休みには店を手伝い、給金で憧れのちょっといいギターも自分で買いました。

テーブル席の個室が多数用意されています
テーブル席の個室が多数用意されています

大学進学の話が出る頃には、「仕事がおもしろいし、どうせ継ぐんやから、もう職人の世界にこのまま入りたい。内部進学はせえへん」と言うほどでしたが、両親に説得されて同志社大学商学部に進学します。

大学卒業後は、修業のために東京のホテルで働きましたが、ケガをして京都に戻ります。そして最終的にケガが治るまで、リハビリに数年かかりました。このときに「日本社会の閉鎖性などに気付き、嫌になってブラジルに家出したんですよ。音楽好きでボサノバやサンバにも興味があったしね。家出の準備を全部してから、『明後日から行くわ』って両親に言うたんです。父は泣き怒ってました。ほんま悪い息子で、あきまへんね」。

ブラジルから京都に帰ってからは、20代の頃からおもしろく感じていた精肉の作業も、大番頭さんに頭を下げて丁稚扱いで鍛えてもらいました。音楽活動も続けていましたが、東京出張中に父が目の前で倒れたことから、三嶋亭を本気で継ぐことを決断。その3年後に父が74歳で亡くなり、34歳で三嶋亭を継ぎました。

「大番頭さんも父と一緒に辞めて、責任がのしかかって無理していたのと、家族に望まれない結婚をしたこともあって、継いだ4年後の38歳のときに過労によるストレスなどでぶっ倒れたんです。1カ月は集中治療室で、38度の熱が3週間下がらない。1カ月ちょっとで退院しましたけど、完全に治すのに3、4年かかりました」

生死をさまよう病からの復帰後、時間を有効に使わなくてはいけないと強く感じた三嶌さんは、すき焼き肉を切る技術の原点である日本料理を習い始めます。それまでの三嶋亭では「すき焼き」を出すだけでしたが、懐石仕立てにしたいとの考えからでした。さらに茶道と華道も習い始め、現在も続けています。

また、4年前には龍谷大学農学部の大学院に2年間通いました。「牛肉の霜降りと赤身の実験ばかりしていたんですけど、裏テーマは人間の人口と食糧危機でした。牛肉1キログラムをつくるためには、穀物が11キログラムもいるんです。非効率で贅沢もんなんですよ。だから6代目のときには、ひょっとしたらほんまもんの肉は100グラム1万円で売って、大豆のフェイクミートが千円で売っているかもしれません。商売を続けていくためには、考えておかないと」と三嶌さん。

現在は、細かいことに気がついて口うるさくなってしまうと自覚しながら、調理を中心に全部門をチェック・指導・アドバイス、営業活動のほか、姉妹店の炭焼きステーキ店「翁樹庵」で腕を振るっています。

「伝統を守るのは戦いやと思うんで。美味しくなるように進化させ、和食のエッセンスを入れたりとか、しつらい、空間コーディネートなど、伝統そのままではなく進化しないとダメ。三嶋亭のすき焼きにお金を出すという選択をしてもらうために、飲食だけでなく全てのものと戦わなくてはいけない」

狂牛病やコロナ禍のツラい時期も乗り越え、時間を無駄にしないと走り続けていた気持ちに変化が生まれた三嶌さんは、もう一度ギターを手に取り活動を続けています。

「光も闇も見てきました。戦争中は物資がなかったので飲食の営業ができず、小さな部屋がたくさんあるため旅館として建物を使っていました。だから生き残るためには、将来フェイクミートも扱わなくちゃいけないかもしれない。ただ、すき焼きで始まったので、すき焼きはしっかりと残したいという考えはあります」

明治6年からこの場所で商いを続けてきました
明治6年からこの場所で商いを続けてきました

3人の娘の父親でもある三嶌さん。

「現在高校1年生の娘は、小学6年生のときに将来について聞いたら『私が継ぐのか? 継ぐわ』みたいに言って、手伝いに来ています。私と大番頭さんが肉について教え、魚を捌くのもだし巻き卵も教えました。僕の目標は、娘が20歳くらいのときに、スーパーシェフのできあがりですよ。その後も茶道なども習ってもらい、スーパーシェフ女将の誕生です。娘が旦那さんを連れてきてくれるか、僕が探しに行くか。もしかしたら、娘の出会いを探しに行くのが、僕のこれからの最大の仕事かもしれませんね(笑)」

◾️三嶋亭 
寺町三条の本店のほか、高島屋京都店(レストラン)、大丸京都店(精肉・弁当・イートイン)、翁樹庵(姉妹店)あり

取材・写真・文/太田浩子

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